清廉潔白なことを政治家に求める行為は愚の骨頂

6月6日に発表された舛添都知事の政治資金の調査結果が、案の定避難を浴びている。

 

私が認識している限りでは、1年くらい前から話題に上っていた舛添都知事の政治資金問題。

当初から、それにまつわる記者への質問に対して「問題ない」と否定することに加えて、愚問だと言わんばかりに振る舞う彼の高慢な態度に、都民として私も憤りを感じ、メディアがこぞって取り上げる日を待ち望んでいた。

 

そしてようやく訪れた連日報道。

さまざまなメディアが詳細に資料を読み込み、都知事へのバッシングを繰り返し、なしのつぶてだった都知事が反省の意を表することになったのは、非常に有意義だったと思う。

 

だが、そこから当たり前のように辞任を要求する流れには賛同できない。

過去に疑惑を向けられ釈明できなかった政治家たちも、同じように辞任を要求され多くの者が言われるがままに役職を解いて去っていったが、どうして世間は責任を"辞任"という形で負わせようとするのだろうか。

 

舛添都知事は非常に分かりやすく権力に固執しており、罰としてその職を解くというのは彼へのダメージとして計り知れなく、"裏切られていた"都民のハラは収まるかもしれない。

けれど、それで解決する問題よりも、そのことで生じる後任人事などの新たな問題の方が大きい気がしてならない。

コストも手間もそれに割かれることの方が、実は都民にとってデメリットなのではないだろうか。

 

舛添都知事は傲慢で権力誇示が痛々しく金銭への執着も凄まじいが、それ以外の政務公務に関しては"普通"という印象がある(右翼派の方には、保育所よりも韓国人学校の設立を優先させたことなどに意見はあると思うが、これも単に韓国権力とのコネクションを優先させた彼の驕りなので、思想的な意味合いは薄いと個人的にみている)。

今回のことで、都民として目を光らせるべきポイントが政治資金とハッキリしたので、新たに選出された都知事よりも、扱いやすい存在になったと思うのは、楽観的だろうか。

リオ五輪の閉会式で行われるフラッグハンドオーバーセレモニーで旗を振るうことを心待ちにしている舛添氏のことを考えると妙に腹立たしく、「他の人にやってもらいたい…」とは切に思うが、感情的にならずに俯瞰して都政を慮りたいものである。

 

日本人は国民性なのかなんなのか、"ハラキリ"のようなことに美学を感じすぎていて、根本的な問題解決に向き合わない性質があるように思う。