美少女戦士セーラームーンCrystal第3期主題歌考察

初期セーラームーン放送開始のときに小学校低学年だったセーラームーン世代で、さらにオタク気質だったので、同年代の友人たちがRあたりで卒業していくのを尻目にセーラースターズまでがっつりハマっていた。

ここ数年のセーラームーンバイバルにまつわる企画も大変ホクホクとした気持ちで眺めている。

 

4月から放映されている第3期(旧作でいうと"セーラームーンS")の放送も、毎回楽しく見ている。

が、第3期からの主題歌のチョイスにどうにも違和感を覚えてならない。

 

まずは第3期オープニングのやくしまるえつこの"ニュームーンに恋して"。

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当初、やくしまるえつこの起用を知ったときに、幾原邦彦の"輪るピングドラム"が想起されたのもあり、一瞬楽しみにしていたのだが、蓋を開けてみると、どこかしっくりこない。

やくしまるえつこのどことなくアンニュイな声色に物足りなさを感じてしまうのだ。

第1期第2期のももいろクローバーのような、ハッキリしたクセのない主題歌の方が、個人的にはぴったりと当てはまっている気がする。

 

さらに、第3期の第2エンディングのセーラーちびムーン(Cv.福圓美里)による"乙女のススメ"。

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旧作Rのエンディング"乙女のポリシー"をどこかでオマージュしている気がしないでもないけれど、小西康陽の雰囲気がポップで軽すぎて「コレジャナイ」感が漂う。

あくまで、個人の感想であるけれど。

 

気になってwikiをちらっとチェックしてみたら、第3期からスタッフがほとんど入れ替わっていた。

 

違和感のもうひとつの正体がなんとなく見えてきたような気がしたのは、主題歌キャスティングにまつわる"政治"の匂いだろうか。

キャスティングのコアに、長年のセラムンファンや新規ファン、セーラームーンへの愛よりも、音楽業界の人たちの安易な狙いの方を強く感じてしまうのである。

ビジネスには流行り廃りもあるし、選り好みも当然あるから、仕方がないのかもしれないけれど、もうちょっと丁寧なキャスティングしてほしかったと思う。

この2曲は一体どんな層にフックを仕掛けたつもりなんだろうか。

 

(2016.6.6追記)

なんてことを書いていたら、"ニュームーンに恋して"のももクロVer.がUPされていた。

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そうそう、これこれといった感じです。

ブラックレストラン勤務と離婚でゾンビみたくなっていた日々

夏の暑くて眩しい日差しに何も感じなくなったのに気がついた私は

「わたしの心は死んだのかな」と思った

 

死んでしまったなら、もうどうでもいいやという気分になった

 

でも死んではなかった

 

二度目の救急車に運ばれて自主退社してから4年くらい経っただろうか

今は初夏の空がとても気持ちいい

 

この感覚を取り戻すことができて本当によかった

自分の魅力を担保に、周囲の手助けという最強のレバレッジを得よう

人から何かをしてもらうことが、とても苦手。

これは自己評価が著しく低いことに起因していると思うのだけれど、とにかく人にお願い事をすることが苦痛でプレッシャーなのである。

 

だから、なるべく一人でできるようなことで、これまで食い繋いできた。

人から協力を仰ぐことを避ける道を選んで、生きてきたのだ。

 

といっても、人は一人で生きていけるものではない。

こちらから何かを頼むことは少なかったかもしれないが、今の私があるのはこれまで出会ったたくさんの人たちのおかげなのは、曲げようのない事実なのは、本人がいちばんよくわかっている。

 

それなのに、未だに頑なに一人で生きていこうとする私。

いや、一人で生きている“フリをしている”私、の方が正しいか。

 

でも、最近加齢のせいか、その弊害に気づくようになってきた。

なんでも一人でやろうとしてきたせいで、誰かの力を借りる為のコミュニケーションの成長を自ら削いできてしまっていたということを。

そして、人から何をされることが良くて、何をされることが悪いことかの一般的な空気感を計るものさしを創る機会を得てこなかった損失のダメージを!!

 

人に何かをされることは苦手だけれど、人に何かをすることには抵抗がないので、頼まれたことは、自分の力の範囲内で、惜しみなく協力しがちなのであるが(前述の通り、自己評価が低いせいで、使われる機会も多い…)、このさじ加減をよく間違えるのである。

 

これは大変、由々しきこと。

 

若いうちに失敗をして身につけるのが理想ではあるが、そうもいかない。

とにかく、恐れ過ぎずに、人から労力を得ることの抵抗をなくせるよう、日々努めていきたいと思う。

息子を言葉を理解できない外国人として扱うことにした

子供の頃の記憶がない大人たちは、たいてい子供をなめてかかる。

私はそれを非常に迂闊な行為だと思う。

 

まだ喃語しか喋れないような赤ちゃんでも、状況の把握を大人が思っている以上にしているからだ。

相手の発信力の弱さで受信力まで弱いを断定するのは早合点でしかない。

 

まー、当人たちも悪意があってやっていることではないんだろうけれど。

 

日本にきたばかりでまだ満足に言葉を操れない外国人を小馬鹿にする日本人と、

赤ちゃんだと油断して舐めた言動を繰り返す大人の行為がなんとなく被ってみえることに気がついて発見した。

「赤ちゃんはまだ文化と言語を身につけてないだけなんだ」と。

 

というわけで、息子の前で堂々と裸で着替えたり、つまみ食いしたりは今度改めようと思った次第でございます。

ひとりでママ活。

もうすぐ6ヶ月の息子を連れて、文京区界隈を散策。

 

上野恩賜公園でもうすぐ開花する桜を見上げながらチュロスを食べていたら、

子連れグループの視線を感じた。

 

家族や友人同士のグループばかりだったので、

お一人様の子連れでチュロスなんて浮かれたものを食べていたから奇異に映ったのかもしれない。

 

…でもでもだってママ友いないんだもん!

 

知り合いがいないわけでもないのだけれど、昔から特定の人とつるむのが苦手。

特に“ママ友”については、いろんなところでネガティブなイメージが囁かれていて、偏見しかないのが現状。

いざ、そういう人たちの集まる場所に行く機会があっても、いかんせん壁を作ってしまう。

 

だからもういろいろ諦めてる。

 

これまでだって、一人でいろんなところに出かけていった。

20代で“生涯お一人さま”を決意した人間のフットワークは、集団行動で形成された一般女子のそれとは全く違う種のものだと思う。

 

だから、ひとりでも全然平気なんだよね。

いや、ひとりじゃないな。

今は息子と一緒だからふたり。

 

……!!!

そう気がついてから、視界がパッと明るくなった。

 

息子に同年代の友達を作ってあげたいから、そういう面ではママ友作りも必要だとは思うんだけれど、下手に空回りして「あんな母親がいる子とは遊んじゃいけません!」と言われるとリカバリーできないし。

細々、黙々と。

とりあえず、今はお一人様でママを楽しむことにする。